フランス・アンティーク金貨の世界~ナポレオン3世フラン金貨~

フランス19世紀後半、ナポレオン3世の治世はどのようなものだったのでしょうか?
ナポレオン1世による第1帝政の崩壊後、フランスでは再び王政が復活しました。
しかし、その後ルイ=ナポレオンが第2共和制下で大統領に選出され、やがて皇帝ナポレオン3世として第2帝政が始まります。
本コラムでは、この時代の歴史の流れや、諸外国との戦争、産業発展、そして関連する金貨についてご紹介します。
18世紀後半~19世紀のフランス~第2共和制下までの歩み~
フランス第2帝政は、近代フランス史において 1852年から1870年まで、19世紀後半に位置する時代です。
その始まりのきっかけは、1789年のフランス革命にさかのぼります。1789年の革命後、フランスは激動の時代に突入しました。
1791年に成立した立憲王政はわずか1年で崩壊し、第1共和政が樹立。王政が廃止され、史上初めて「国民が選ぶ国家元首」による共和制が誕生します。
1804年からはナポレオン1世による第1帝政が開始され、強力な軍事独裁政権が築かれました。
しかし、その帝政も10年後の1814年に終焉し、復古王政が復活します。
復古王政は約15年間続きましたが、1830年に「7月革命」と呼ばれる市民革命が勃発。この1830年7月27日から29日までの3日間は「栄光の三日間」と呼ばれています。
革命の背景には、「上層ブルジョワ」の利益ばかりを優先するシャルル10世に対する不満がありました。そのため、パリの労働者や小市民が立ち上がり、王政に反対したのです。
シャルル10世は退位に追い込まれたものの、共和政は実現せず、オルレアン公ルイ・フィリップによる7月王政が始まります。
2月革命から第2共和制へ
7月王政は 18年続いた後、1848年の2月革命によってルイ・フィリップが退位。ここで第2共和制が成立します。
第2共和制はわずか 4年間という短命な政体でしたが、その間に新憲法が制定され、「自由・平等・友愛」の理念が盛り込まれ、三権分立も導入されました。
ルイ=ナポレオンの台頭~第2帝政の幕開け~
この第2共和制のもと、1848年12月に行われた大統領選挙で、ナポレオン1世の甥、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)が圧倒的な支持を受けて大統領に選出されます。
その後、議会との対立が激化し、ルイ=ナポレオンはクーデターを決行。1852年12月、皇帝に即位し、第2帝政が幕を開けました。
帝政再建については、その直前の 11月の国民投票でルイ=ナポレオンの即位は95%という圧倒的な支持を受けて承認されています。
ナポレオン一世の甥、ルイ=ナポレオンの出生は?ナポレオン3世になるまで

ウィキペディア(Wikipedia)より画像引用
ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)は、あの有名な ナポレオン1世の甥にあたります。
父はナポレオン1世の弟で、かつてオランダ王を務めたルイ・ボナパルト。ルイ=ナポレオンは、その 三男として1808年、現在のパリ・ラフィット通り(当時はセリュッティ通り)に生まれました。
母は、ナポレオン1世の妻ジョゼフィーヌの娘であり、ボナパルト家とジョゼフィーヌ家の血を引く人物です。
本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。彼には、幼くして亡くなった兄 ナポレオン・シャルル(5歳没)、およびナポレオン・ルイという兄がいました。
1815年、ナポレオン1世の失脚にともない、一族は 亡命生活を余儀なくされます。その後、スイスやバイエルンなど各地を転々とする生活が続きました。
幼い頃のルイ=ナポレオンは家庭教師のもとで教育を受け、早朝から夜まで猛勉強に励んだといわれます。
ドイツ語圏で過ごした期間が長かった影響で、彼のフランス語にはドイツ語なまりがあったとも伝えられています。
亡命中にはイタリアの独立運動にも参加。兄ナポレオン・ルイも一緒に活動していましたが、活動中にはしかを患い亡くなっています。
またルイ=ナポレオンは、フランス帰還を試みては失敗しつつも、ロンドンやアメリカへも渡り、各地で多くの見聞を積んでいきました。
1840年8月には、ナポレオン1世の 遺骸帰還(アンヴァリッド廟への移葬)の機会を利用し、ブーローニュで蜂起を企てるも失敗。逮捕され 終身刑となり、約5年間獄中生活を送ることになります。
しかし、獄中でも彼は経済学や政治学の書物を読み続け、知識を深めました。1844年には『貧困の根絶』を獄中から発表しています。
その後1846年に脱獄。獄房の改修工事を装い、労働者に変装して脱走。仲間の助けと両親の遺産を頼りに、ベルギー経由でロンドンに逃れました。
そして1848年の2月革命でルイ・フィリップの7月王政が崩壊。その機に乗じて40歳でフランス帰国を果たします。
皇帝への道~国民の期待と人気の高まり~
ルイ=ナポレオンが皇帝へと上り詰める背景には、当時の社会情勢の不安定さと、ナポレオン1世に対する再評価の高まりがありました。
帰国時には、ナポレオン1世の息子や叔父たちはすでに亡くなっており、ルイ=ナポレオンが ナポレオン家の唯一の後継者として国民の期待を一身に集めることになります。
こうして彼は、第2共和制下で圧倒的な人気を背景に政治の表舞台に立ち、やがてナポレオン3世として帝位へと昇り詰めていったのです。
第2帝政の内政・外交は?産業革命が加速!
第2帝政が始まった時点で、フランスの産業革命はすでにある程度進んでいました。ナポレオン3世はこれをさらに推し進め、自由貿易主義を掲げてイギリスからの輸入禁止品目を撤廃。
また、鉄道網の整備にも力を注ぎました。
鉄道の敷設距離は1850年には約3,600kmでしたが、1870年には約23,300kmにまで拡大。これにより旅客・貨物輸送の両方が飛躍的に発展しました。
また、産業革命の成果を世界に示す目的もあり、1855年と1867年にはパリ万国博覧会(パリ万博)を開催。都市改造の一環として、パリ市街はオスマン知事の下で現在のような放射状の街並みに整備されました。
さらに、世界初の百貨店とも言われる「ボン・マルシェ」もこの時期に誕生しています。
一方で、若き頃に『貧困の根絶』を著したナポレオン3世ですが、皇帝就任後は 社会保障政策には消極的でした。
そのため、イギリスの労働運動の影響を受けたフランスの労働者たちが労働条件の改善を求めてストライキを頻発させるなど、帝政末期には社会不安が高まっていきます。
対外政策では、ナポレオン3世は 積極的に戦争と植民地拡大を進めました。
特に有名なのがクリミア戦争(1853~1856年)。ナポレオン1世時代には敗れたロシアに対して、ナポレオン3世は見事に勝利を収め、国内での名声が一気に高まりました。
さらに、 イタリア統一戦争(対オーストリア戦争)、インドシナ出兵などにも関与。「戦争で勝利し国民の支持を高める」路線は当初は成功を収めたと言えるでしょう。
しかし 1861年から開始したメキシコ出兵は大きな誤算でした。メキシコ民衆の抵抗と アメリカ(南北戦争後)の強硬な反発により、最終的には 撤退を余儀なくされます。
そして運命を決めたのが1870年に勃発した普仏戦争。スダンの戦いでの大敗が致命傷となり、帝政は崩壊。ナポレオン3世の時代も終焉を迎えるのです。
プレミアがつく特年も!ナポレオン3世100フラン金貨

ナポレオン三世100フラン金貨
ナポレオン金貨については一般的にフランスの20フラン金貨全般を指すこともありますが、ここでは ナポレオン3世時代の金貨についてご紹介します。
ナポレオン3世は1848年に大統領に選出され、1852年に皇帝に即位。治世は 1852年~1870年まで続きました。
ナポレオン3世のナポレオン金貨は、5・10・20・40・50・100フランの各金貨が発行されています。
その中でも 大量発行されたため、現在も 比較的多く市場に現存しており、通常は 地金相場に近い価格で取引されることが一般的です。
しかし、発行枚数が少ない特年号やPCGSやNGCの鑑定済コイン、鑑定なしでも状態の良い美品などのケースでは、プレミア価値がつくこともあります。
ナポレオン3世金貨は、表面の肖像が「無冠タイプ(初期)」と「有冠タイプ(後期)」に分かれます。
裏面は紋章デザインで、ミントマーク(造幣局マーク)は裏面に刻印。パリ造幣局(A) と ストラスブール(BB) のものがあります。
中でもコレクターや資産家から高い注目を集めているのが、大型の100フラン金貨です。
重量は32.25g、堂々たる存在感を誇るコインで、ナポレオン1世時代には発行されなかった大型金貨という点も魅力です。
フランスの大型金貨の歴史は ナポレオン3世100フラン金貨から始まりました。
発行年は1855年~1870年。
発行枚数は年号・鋳造地によって 1,000枚未満~数万枚と幅があります。
特に希少性が高い年号は、ストラスブール(BB)発行のものでは、1856年BB、1864年BB、1868年BB。パリ(A)発行のものでは1865年Aなどです。
また、大型金メダルも発行されました。
有名なのが 1855年パリ万国博覧会記念メダル(開催地はシャンゼリゼ)。こちらは重量160g超という非常に重厚なメダルで、ヴィクトリア女王夫妻も訪れた記念万博のものです。
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普仏戦争、スダンの戦いメキシコに敗れ…退位
スダンの戦いで敗れた際、ナポレオン三世自身が捕虜となった為退位を余儀なくされました。こうして共和制を望むパリの民衆たちが立ち上がりました。
普仏戦争の敗北を知った妻のウージェニーはパリのチュイルリ宮殿から脱出してイギリスに亡命します。
ナポレオン三世本人は捕虜生活の後、1871年に解放されイギリスに渡ります。2人にはルイという息子がおり、家族3人でドーバー海峡に面した村で生活し、彼は1873年1月に亡くなります。
息子のルイはイギリス兵として志願し1879年、アフリカで戦死しました。妻のウージェニーは1920年まで生存していました。
ナポレオン三世はその威光を戦争での勝利でも示そうとし、積極的な植民地政策を進め成果も残しましたが、同時にその外交政策によって退位に至ったことも事実です。
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フランス皇帝ナポレオン3世の治世と発行された金貨についてお話をしましたが如何でしたでしょうか?
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