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2023.11.16 古銭買取穴銭

穴銭の種類一覧!古銭の歴史や価値を紹介!レアものの条件も

昔流通していた古いお金のことを「古銭」と言います。

古銭は国内外にたくさんの種類がありますが、そのなかで今回は「穴銭」をクローズアップしていきます。

穴銭とは?

「穴銭」とは真ん中に穴がある銭貨のことで、現在の5円玉や50円玉も穴銭の一種です。有名な穴銭と言えば銭形平次が武器として投げていた「寛永通宝」を思い浮かべる人が多いと思います。

穴銭は政府が経済をコントロールする目的のために発行されたと言われています。それまでは物々交換が主流でしたが、穴銭の発行により現在の貨幣制度の礎ができました。

1608年(慶長13年)徳川家康の時代に穴銭が本来の役割を果たしはじめ、庶民の生活に浸透していきます。

主要な穴銭の種類と特徴を一覧で紹介

たくさん鋳造された穴銭ですが、ここではそのなかでも有名なものを中心にピックアップして、それぞれの特徴をお伝えしていきましょう。

寛永通宝(かんえいつうほう)

「寛永通宝」は形が円形で、表面に寛永通宝の文字を上下左右に配しており、中央に四角い穴が開いています。1636年(寛永13年)から1953年(昭和28年)に使用されていたとされ、材質は銅製のほか、鉄、精鉄、真鍮製のものがありました。

銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、1953年(昭和28年)まで、銅貨4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していました。

通貨として実際に使用されたのは明治中期頃までと推定されます。

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寛永通宝の価値は?種類一覧やレアものの見分け方を紹介

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)

「和同開珎」は日本で最初の通貨で、708年6月3日(和銅元年5月11日)から日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨。流通貨幣と言われる皇朝十二銭の1番目にあたります。直径約24mmの円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式。

表面には時計回りに和同開珎と表記されており、裏は無紋。形式は、621年(武徳4年)に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じです。

「わどうかいちん」と「わどうかいほう」、2つの読み方があり、江戸時代からどちらで呼ぶか論争が繰り広げられてました。なお、現在では「かいちん」読みが定番化されています。

律令政府が定めた通貨単位である1文として通用しました。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされています。

埼玉県秩父市にある和銅遺跡から、和銅が産出したことを記念して和銅に改元するとともに、和同開珎が作られたと言われています。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこのときのみであり、そもそも和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もあり、唐にならう目的もありました。

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和同開珎の価値は?種類別に歴史や価値など一覧で紹介!

永楽通宝(えいらくつうほう)

「永楽通宝」一般には「永楽銭」と呼ばれ、明の永楽年間(1403年~1424年)に鋳造された銅一文銭ですが、室町時代より日本に多量に移入され、江戸初期まで一般通貨として広く流通し、他の中国渡来銭や日本私鋳の鐚銭よりも価値が高く標準貨とされました。

方孔をはさんで上下左右に永楽通宝の文字が刻まれています。永楽帝の父、洪武帝が作った洪武通宝には1、2、3、5、10文の5種類があり、建文帝も5種の建文通宝を作りましたが、永楽通宝は1文相当の銅銭1種のみ。

また、永楽通宝の鋳造が開始された時期については諸文献の記載が異なります。通説では1408年(永楽6年)、北京で鋳造され、11年に浙江、江西、広東、福建の4布政司の管轄下で、大々的に鋳造されはじめたとされています。

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永楽通宝とは?価値や歴史を種類一覧で解説!高額査定が期待できる種類も

天保通宝(てんぽうつうほう)

「天保通宝」は、江戸時代末期から明治時代前半頃にかけての日本で流通した銭貨。「天保銭」とも言います。形状は楕円形で、中心部に正方形の穴があり、表面には「天保通寳」、裏面には上部に「當百」と表記され、下部に金座後藤家の花押が鋳込まれています。

素材は銅を主成分とした合金製で鉛や錫なども含んでおり、重量は約20.6g、サイズは縦50mm、横30mm。1835年(天保6年)に創鋳し、貨幣価値は100文とされ「当百銭」とも呼ばれましたが、実際には80文で通用していました。

質量的に額面の価値はまったくない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も相次ぎました。明治維新後も流通しましたが、1891年(明治24年)12月31日を最後に正式に通用停止となり、1896年(明治29年)末で新貨幣との交換も停止となりました。

「明治財政史」には、1877年(明治10年)から1897年(明治30年)、流通不便貨幣として回収・鋳潰しの対象となった貨幣として、5銭銀貨・2銭銅貨・天保通宝・文久永宝の4種が挙げられており、回収および溶解された物を除き、現在まで残っている天保通宝の枚数は1億から2億枚と推定されています。

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琉球通宝(りゅうきゅうつうほう)

「琉球通宝」とは文久年間に薩摩藩が琉球救済を名目に鋳造した地方貨幣銅銭であり、「當百」と「半朱」の2種類が存在します。當百は表面に「琉球通寳」、裏面に「當百」と鋳出され、左右側面には薩摩を示す「サ」の極印が打たれています。

1862年(文久2年)3月、当時薩摩藩の支配下にあった琉球救済を名目に、幕府に3年の期限付きで鋳造する許可を得て同年8月に発行されましたが、同時に天保通宝が多量に密鋳されたと言われ、薩摩で鋳造されたとされる密鋳銭が数多く現存しています。

1863年(文久3年)7月の薩英戦争までに半朱を含めて30万両の大銭を鋳造し、戦後も日々7,000両余鋳造されたとされています。

しかし、この様な大量鋳造により相場が暴落し、一両=14.5貫文となったと伝えられています。

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長崎貿易銭(ながさきぼうえきせん)

「長崎貿易銭」とは1659年(万治2年)に鋳造されはじめた古銭で、外国貿易用に特別に鋳造が許可されていました。このとき日本は鎖国中でしたが、長崎でオランダや中国とだけ貿易しており、その際の取引に用いられたのが長崎貿易銭です。穴銭の一種で銅でできています。

当時の中国は銅が不足していたため、長崎貿易銭の流入はとても喜ばれていましたが、鋳造は1685年に停止します。

長崎貿易銭は、大きく分けて7種類の「元豊通宝(げんぽうつうほう)」「天聖元宝(てんせいげんぽう)」「祥符元宝(しょうふげんぽう)」「嘉祐通宝(かゆうつうほう)」「熈寧元宝(きねいげんぽう)」「紹聖元宝(しょうせいげんぽう)」「治平元宝(じへいげんぽう)」が造られました。

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長崎貿易銭の種類一覧!価値や歴史的背景を解説!

威豊通寶、咸豊通宝(かんぽうつうほう)

「咸豊通宝」は中国古銭「清朝銭」の一種で、清朝時代に鋳造された銭貨です。清王朝の第9代皇帝咸豊帝の時代である1851年から10年間発行され、真ん中に四角い穴が空いた穴銭となっています。

表面には咸豊通宝の刻印、裏面には記号文字と額面が掘ってあるのが特徴です。咸豊通宝は清朝銭としては珍しく、銅銭と鉄銭の2種類が鋳造されています。

金種は6種類あり、それぞれに価値はさまざまですが、とくに大型の物は、高い価値で取引されています。ですが、近代になって作られた模造品も多く存在します。

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咸豊通宝(威豊通寶)の種類や価値は?中国古銭特有の偽物も多い?

開元通宝 (かいげんつうほう)

「開元通宝」は唐代において、621年(武徳4年)に初鋳され、唐代のみならず五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣です。開元通宝は秦の半両銭・漢の五銖銭の形態を継承し、直径は約24mmで、質量は約3.73gです。

宋代になっても、開元通宝は宋銭とともに中国にて現役で流通しており、日本でも渡来銭として宋銭などとともに使われていました。

円形方孔の形式は、中国では中華民国初期の民国通宝まで続き、日本や朝鮮・ベトナムなど周辺国の銅銭の模範にもなりました。この形式で世界最後のものはベトナムの保大通宝です。

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開元通宝の種類と価値は?和同開珎のモデルになった中国古銭

絵銭(えせん)

絵銭とは、室町時代の末期から大正時代まで日本に広く流通していた、絵が刻まれた銭貨のこと。子どものおもちゃや、お守りとして使っていたそうです。

種類は膨大にあり、江戸時代からコレクションしている人がいたほど。有名な絵銭を挙げると、噴火した富士山が描かれた「浅間銭」、めんこ遊びのルーツとなる「穴一」という遊びに使われた「穴一銭」、石蹴りに使用する鉄製の絵銭「五位堂銭」などがあります。

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絵銭の価値を種類別に一覧で解説!お金ではないのに古銭?

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)

皇朝十二銭とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて日本で鋳造された12種類の銅銭の総称です。和銅元(708)年に日本で最初の貨幣「和同開珎」が作られ、その後、天平宝字4(760)年に「万年通宝(萬年通寳)」、天平神護元(765)年に「神功開宝(神功開寳)」、延暦15(796)年に「隆平永宝(隆平永寳)」、弘仁9(818)年に「富寿神宝(富壽神寳)」、承和2(835)年に「承和昌宝(承和昌寶)」、嘉祥元(848)年に「長年大宝(長年大寶)」、貞観元(859)年に「饒益神宝(饒益神寶)」、貞観12(870)年に「貞観永宝(貞観永寶)」、寛平2(890)年に「寛平大宝(寛平大寶)」、延喜7(907)年に「延喜通宝(延喜通寶)」、天徳2(958)年に「乾元大宝(乾元大寶)」が発行されました。

いずれも形は円形で、中央に正方形の穴が開いている「円形方孔」となっています。

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穴銭の歴史

中国の「開元通宝」をモデルとして683年(天武天皇12年)頃に、日本で初めて鋳造されたと推定される「富本銭」が作られました。富本銭は708年(和銅元年)に発行された「和同開珎」より古いとされ、富本銭よりも前の貨幣として「無文銀銭」が知られています。

無文銀銭・富本銭・和同開珎の関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多いのです。国内での発行が無かったものの、取引に便利なお金は人々に求められていました。

それを補ったのが中国から輸入された「渡来銭」です。中国との交流は遣唐使が廃止されて以降途絶えていましたが、宋が建国されると日宋貿易が盛んになり、日本の砂金との取引に使われた「宋銭」が大量に流入しました。

使用禁止令が幾度となく出されても、宋銭は人々の間で広く使われていました。15世紀になると、個人が国の許可なく造った銭貨も多く出回りました。

中国銭を元にした鋳型から作られた「私鋳銭」「模鋳銭」「加治木銭」などが挙げられます。多種類の私鋳銭から良質の銭貨を選び、質の悪いものを避ける撰銭の風潮が強まり、室町幕府や大名は取り締まりを強化しましたが一向に改善されませんでした。

穴銭が最も流通したのは江戸時代で、寛永通宝にはじまり「慶長通宝」「文久永宝」「天保通宝」などさまざまな穴銭が発行されています。

穴銭のデザインと意味

中国の戦国時代に秦で鋳造され流通した青銅貨幣。環銭とも言われ、総称として円銭と呼ばれています。

小判型や円形に丸か四角の穴が開いており、戦国末期に円体円孔銭や円体方孔銭が出現。秦の始皇帝が中国を統一すると同時に円体方孔の半両銭が鋳造され、中国や日本の青銅貨幣の基本形となりました。

主に四角い穴の古銭を穴銭と呼び、丸い穴の古銭は「古圜法」と呼ぶのですが、今では穴の開いた銭貨をまとめて穴銭と呼んでいます。

穴銭の種類は無数にあり、数え切れないほどのデザインがあります。穴の形が方形の理由は、丸い穴だと回転してしまうので四角い穴に四角の棒を通して形を整えるためとされ、円形の貨幣に四角の穴を開けたと言われています。

中国の「開元通宝」を模倣して造られたので、見たまま方形にしたという説もあります。そして古圜法の場合は、四角形に比べ使用するときに便利で角がないので摩損が少なく、大量生産するうえで好都合という理由から円形とする方針を定めました。

5円玉や50円玉に穴が開いているのは、他の額面の貨幣との識別を容易にするためだとも言えます。

古代中国では青銅貨に穴を開けて、紐通しで持っていたと考えられています。日本でも江戸時代に1000枚の銅銭に紐を通した束を「1貫文」と呼んでいました。

もし穴のない銅銭であれば、これだけ多くの枚数を扱うのは難しかったでしょう。もうひとつの理由として、円形方孔というのがあります。

古来中国では丸の形は天を表し、四角は地を表すと考えられており、丸と四角の組み合わせは万物の根源であり、縁起が良いとされていたので中国では好意的に受け取られるデザインだったようです。

「絵銭」という民衆が作っていた玩具の穴銭があり、七福神や大黒天などが描かれていました。これは民衆が「豊かになるように」と祈りを込めたもので、信仰対象となっていました。

また、有名な絵銭のひとつに「駒曳銭」というものがあり、農民が牛や馬を引いている絵柄が描かれています。

なかには農民が猿になっている「猿駒曳銭」もあり、子どもが遊ぶためのおもちゃとして作られました。絵銭はほかにも種類があり、民衆の身近な存在でした。

12世紀半ばから16世紀の日本では、中国から大量に流入した銭貨(渡来銭)が1枚=1文の価値を持つお金として人々の間で広く使われていました。

銭貨は米や絹のように量をはかる必要がなく、少額の取引に使える一方、まとまった額の取引にも使われました。

13世紀以降、商品経済の発展とともに、銭貨の使用が浸透していきました。15世紀後半以降、銭貨の不足から国内外に私的に作られた銭貨が使われるようになり、人々の間で銭貨を種類や形状で区別する「撰銭」が起こったのです。

穴銭がどのようにして取引に使用されたか

遠い昔、まだ経済文化が未発達の頃、人々は欲しいものを手に入れるために、物々交換をしていました。交換の仲立ちをするものとして、生活必需品の米や布・塩などが貨幣の役割をはたしていました。

技術の発展とともに、金属を材料として、物を煮炊きする器や武器・農具などさまざまな物を造ることができるようになり、貨幣も金属で作られるようになりました。

また、中国ではすでに殷の時代(今からおよそ3000年前)に貝が貨幣として使われており、このことは貨幣関係の文字に「貨・財・寳・貯・買・購・賃・貴・販・貧・賠・償」など、文字構成の一部分として貝の字が入ってることや、現存する貝貨によっても実証されています。

それから周の時代に、はじめて農具や刀など物の形をかたどった青銅貨(刀貨や布貨など)ができ、秦の時代になると、これが円形角穴となり、かさばらず貯蔵運搬に便利なお金となりました。

穴銭が流通していた地域や時代による違い

江戸時代に幕府により金貨・銀貨・銭貨が発行され、それまでの中国の銭貨に代わり、日本独自のお金が全国で流通するようになりました。

地域によって使われるお金は異なり、藩札などの紙幣がその地域だけで使われることもあり、江戸時代後半になると商品作物の生産が盛んになるとともに、少額面のお金が普及し、農村でも広くお金が使われるようになっていきました。

古代

欲しいものがあるときには、自分の持っているものと欲しいものとを取りかえる、物々交換をして生活していました。次第に欲しいものがあるときには、米・布・塩などを交換するようになり、貨幣の代わりにするように……。これを物品貨幣と言います。

飛鳥

683年に中国の「開元通宝」をモデルとして「富本銭」が作られ、貨幣には富本と刻まれています。

奈良・平安

708年「和同開珎」が作られました。それから250年の間に、金貨1種類、銀貨1種類、銅銭12種類、「皇朝十二銭」が作られました。その後、豊臣秀吉が金・銀貨幣を作るまでの約600年間、日本で貨幣が鋳造されることはなく、中国から輸入した貨幣が使用されていました。

平安後期・鎌倉・室町

宋(中国)との貿易で砂金を輸出し、代わりに宋の銅銭を輸入して日本国内で使っていました。1404年、明(中国)と室町幕府との間に条約が結ばれ、貿易が始まりました。銅銭はますます重要な輸入品となり、とくに「永楽通宝」は人気があり、全国で使われていました。

安土・桃山

16世紀中頃になると、金銀の採掘が盛んになり、金山や銀山を手に入れた戦国大名は、金貨や銀貨を作りました。なかでも有名なのは、武田信玄が造った「甲州金」です。

甲州金とは、日本で初めて体系的に整備された貨幣制度、およびそれに用いられた金貨です。戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間まで鋳造されていました。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉が金貨や銀貨を作り始め、翌年には「天正長大判」や「天正菱大判」などを作りました。これらは主に褒美用として使われ、庶民は相変わらず明銭やびた銭を使っていました。

江戸

徳川家康が日本で初めて貨幣制度を統一し、全国で使えるようにと金貨・銀貨を作りました。これにより、江戸時代の金・銀・銅貨が揃いました。これを「三貨制度」と言います。

1636年(寛永13年)徳川家光が「銭座」を設置し、寛永通宝を作りはじめました。1695年(元禄8年)金貨・銀貨の質を落として貨幣の数量を増やし、幕府の財政難を切り抜けようとしましたが、物価が上がって人々を苦しめる結果となりました。

ペリーが来航し、日本が開国へと歩みはじめた頃、日本と海外との金銀交換比率の違いを利用して儲けようとする外国商人たちによって大量の金貨が海外へ流出しました。

1866年(慶応2年)、混乱した貨幣制度を整えることを約束した「改税約書」をアメリカ・イギリス・オランダ・フランスと結びましたが、約束をはたせないまま時代は明治へと移っていきます。

穴銭の収集が趣味として人気な理由

穴銭の価値が高い理由として他の古銭に比べて歴史が長く、短期間で素材や形状の異なる穴銭が多く流通したことが挙げられます。また、当時は穴銭などの貨幣を量産する時に「母銭」と呼ばれる鋳型を取るための型がありました。

母銭は現存数が少ないため、仮に古銭買取に出したら一般的な穴銭に比べて数倍~数十倍もの買取価格が付くと言われているのも理由のひとつです。

穴銭はかなりの種類があり、古代から存在するものなので、その価値を見定めるのは難しい種類の古銭です。

そして穴銭の買取相場は、希少価値の有無や古銭の状態により買取価格に差が出ますので、価値のわからない穴銭を発見したときは、数人の業者や専門店に鑑定を依頼することをおすすめします。

なかにはプレミアがつき100万円以上の金額で取引されている高価なものも存在します。数100円で購入可能な穴銭もあるので、コレクターデビューにはおススメの古銭です。

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