バレンシアガの歴史

バレンシアガのストリートスタイルなアイテムが散りばめられたブランドイメージ画像

大きくブランド名が印字されたアイテムで有名なバレンシアガ。
現在ではストリートファッションをを語るうえで欠かせない存在となっています。
そんなバレンシアガですが、創業100年を超える老舗ブランドだということをご存じでしょうか?
今回はその歴史を紹介します。

バレンシアガの創業

1914年にクリストバル・バレンシアガは、スペインにアトリエをオープンします。これがブランドのはじまりです
彼は針子である母から裁縫を学び、なんと12歳の頃から洋裁師として働き始めました。
その実力は、フランスの侯爵夫人が顧客にいるほど高かったのです。そして、彼女からの援助を受けて独立。彼のデザインはパリで大きな評判を呼びます。

1933年にはマドリード、1935年にはバルセロナに新店をオープン。ブランドは着実に人気を得て、王室までもが顧客になりました。
スペインのファッションを代表する存在に成長したのです。

戦争と成長

クリストバルはスペイン内戦の影響でパリに移住しました。パリのストリートに店を構えた彼は、初のコレクションを開催。これが大きな転換点になったのです。

コレクションに登場したアイテムはパリ市民の間で大きな話題を呼びました。
ウエストラインのない「バレル・ルック」やシンプルを追い求めた「サック・ドレス」など、体形を気にせずゆったり着れる服が特徴でした。
当時の主流はコルセットで腰を固め、体のラインを強調するファッション。トレンドに反するデザインは、ファッション界に影響を与えました。

そして、スペインで閉鎖していた店舗の営業を再開します。長い間閉鎖していたにもかかわらず、人気は落ちるどころか上昇していたのです!
1964年には香水を発表し、人気アイテムになります。名前は「ル・ディス」と言って、フランス語で「10」という意味。最初のアトリエの住所が10番地にあったので、この名前が付けられました。

翌年、クリスチャン・ディオールが「ニュールック」を展開します。世界中で一大ムーブメントを引き起こしたのですが、バレンシアガにはあまり影響がありませんでした。ニュールックとバレンシアガのデザインには共通点があったからです。
というのも、ディオール自身がバレンシアガのファンだったのです。彼はクリストバルを「われわれ全員の師」と仰ぐほど、心酔していました。

そんなクリストバルですが、次々と新しいデザインを生み出します。1955年に発表した「チュニックライン」は、ディオールの「Aライン」とともに話題を独占。
「モードの芸術家」と呼ばれるほど斬新なデザインを発表し、「モードでバレンシアガに並ぶ者はいない」とまで言われていたのです。

彼はクチュリエとしての技術も高かったのです。それは、ココシャネルに「本当のクチュリエは彼だけ」と言われるほど。

クリストバルはプレタポルテの最新技術を見るために、アメリカの工場へ足を運びました。
実際に工場を目の当たりにした彼は、機械では自分の求めるものが作れないと判断を下します。
帰国後も機械化を行わずに他ブランド以上の売り上げを出していたのは、彼の高い技術力があってのことでしょう。

ブランドの衰退

卓越した技術と斬新なデザインで人気を得たバレンシアガですが、時代の変化とともに衰退の道を歩むことになります。
きっかけとなったのは、1968年5月8日に発生したフランス五月革命です。
学生が主体となって、旧態依然とした社会体制や価値観を打破しようとした運動のことを言います。
これは文化や政治だけでなく、ファッションにも大きな影響を与えたのです。

革命以前の主流は「プレッピー・スタイル」に代表される保守的な恰好。
男子はジャケットにタイを身に着け、女子は端正なスカートをはいていました。
これらのファッションは「権力の象徴」とされ衰退。反対に、ジーンズなどのカジュアルなファッションが急速に広まりました。
「贅沢」や「優雅」を強調していたバレンシアガのファッションは、時代に取り残されてしまったのです。
この年にクリストバルは最後のコレクションを開催し引退。「プレタポルテをはじめるには年を取りすぎた」という言葉を残しています。

こうして彼はスペインを含む全ての店舗を閉鎖。
バレンシアガの衰退は「モードの常識が変わる」と言われたほどにインパクトを与えました。

そして1972年、クリストバルは死去。「モードの建築家」と言われた彼がいなくなり、ブランドは倒産の危機に追い込まれます。

ブランドの復活

クリストバルの引退後、長らく低迷状態だったバレンシアガですが、とあるデザイナーの登場によって息を吹き返します。
名前は二コラ・ジェスキエール。現在はマーク・ジェイコブスの後任として、ルイ・ヴィトンでデザイナーを行っています。
彼は若干26歳という若さで、歴史あるバレンシアガのデザイナーに抜擢されたのです。

1998年の春夏コレクションで強烈なデビューを飾りました。その後、シーズンごとに新しいデザインを発表。
2000年には「アヴァンギャルド・デザイナーズ・オブ・ザ・イヤー」を、2001年にも国際的な賞を受賞し世界的な評判を手にします。

そんななか、ブランドを復活に導いた立役者である二コラに目を付けたブランドグループがあったのです。
それはグッチグループ。多数のブランドを買収し、一大ブランド企業を形成している最中だったグッチは、二コラの才能が欲しかったのです。

この買収はお互いに利益のあるものでした。グッチは二コラの才能が、バレンシアガはグッチの持つ資本が欲しかったのです。

世界的に規模を拡大するうえで、ブランドに足りなかったものは資金でした。その問題を解決できるばかりか、グッチグループという後ろ盾を得られるということで、二コラはこの買収をチャンスだと考えたのです。
買収を受け入れたことで、さらに勢いをつけたバレンシアガは商品ラインナップを増やし、世界展開を進めていきます。

日本への進出

2006年、バレンシアガ・ジャパンが設立されます。当時、日本での売上を世界全体の1/4まで引き上げる戦略がありました。
翌年には阪急梅田、西武新宿など、全国的な展開をスタート。その後、グッチグループがバレンシアガ・ジャパンの権利を取得します。
現在の日本で認知度が高いのは、このような戦略があったからなのですね。

二コラの退任後

15年にわたってブランドを導いてきた二コラですが、2012年に引退します。後任として指名されたのは、アレキサンダー・ワン。アジア人初のクリエイティブデザイナーです。自身のブランドを持っていた彼ですが、あまり人気が出ずに2年で退任に追い込まれます。

その後も何度か交代を繰り返し、ヴェトモンのヘッドデザイナーだった、デムナ・ヴァザリアが就任します。ヴェトモンをわずか数年で有名ブランドへ成長させた彼が、どのようにバレンシアガを引っ張っていくのか注目が集まりました。

なんと彼は、バレンシアガをストリートブランドとして成長させたのです。100年以上の歴史を誇るバレンシアガですが、現在、若者にはストリートブランドとして認識されています。
一時は廃業の危機にまで追い込まれましたが、ラグジュアリーストリートの最前線を走るブランドにまで成長しました。

まとめ

当初は高級オートクチュールショップとして創業したバレンシアガ。実は100年以上もの歴史を持っているなんて驚きですね。
創業者であるクリストバルは、ディオールが一目置くほどの実力の持ち主でした。
高い技術力によって世界的なブランドになりましたが、時代の変化によって衰退。
その後、若き天才デザイナーの手によって劇的な復活を遂げます。グッチグループに買収されることで、大規模な世界展開を開始。
現在では、新たに就任したデザイナーによってストリートブランドとして若者に認知されています。

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